教職員インタビュー

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第2回 教員インタビュー  森岡 正博 先生

2013年11月21日(木)
大学院:人間社会学研究科 学域/学部:現代システム科学域/人間社会学部 森岡 正博 教授

大学院:人間社会学研究科
学域/学部:現代システム科学域/人間社会学部
森岡 正博 教授

こんにちは。工学域物質化学系学類応用化学課程2回生の高松晃彦です。
私は環境問題を解決するような技術を開発したいと思い工学域物質化学系学類に入学しました。しかし、1回生の時に森岡先生が講義されていた教養科目「環境・生命・倫理」を受講して技術というものは生活を便利にしていく良い面を持つばかりではなく、人間の在り方を根本から悪い方向へ変えてしまう可能性を含むものなのだと知りました。その後、森岡先生の著作を読み、受験勉強で物理や化学、数学ばかりを勉強していた私は、科学というアプローチが万能なものではなく、生きることや時間のあり方は科学では捉えられない問題なのだと初めて気がつきました。また、哲学は過去の偉い哲学者の残した文献を読み解くだけでなく、自分が生きるうえで考えずにはいられない切実な問いを自分自身で考えることができる学問なのだ、ということを知りました。

哲学というと言葉の響きから難しく感じられますが、『まんが哲学入門―生きるって何だろう?』は、哲学が「私とは何か?」「時間とは何か?」また「一度きりの人生を悔い無く生き切るにはどうすればよいか?」という問いに対する哲学者自身の思考を追っていける本です。

森岡先生のいくつかの本を読んでいると、このような問いが浮かんできました。
●なぜ大学に来ているのだろう?なぜ科学をしているのだろう?
●教養とは一体何だろう?
●自分の感情を排除して考える科学と、人間について感性を元に考える人文系の学問の間には深い溝があるが橋を架けることは可能なのか?
●工学は本当に技術を作ることで社会貢献しているのか?社会貢献とは何か?
●原発事故のように技術が社会に被害を与えることもある。人間は快適になる生活の中で何かを失っていくのではないか?
●そのような科学技術とは一体何か?

そこで森岡先生にインタビューをお願いし、まず初めに「今の時代で新しい知識がどのように生み出されるか、また生み出された知識がどのように応用されるかは、ネットワークのように広がっており予測が不可能だと思う。それでも一人一人の科学者、技術者の倫理を問うことはできるのか?また、 そのような状況下で科学者、技術者は一体どのように行動していけばよいのか?」と考えていることをお伝えしたところ、「それはすごく大きな問題です。」という回答をいただきました。「現代の技術は巨大技術で、専門家は自分の専攻した学問分野については精通しているが、開発した技術が社会の中でどのような意味を持つのかについては素人であり、それが問題になっている。」という観点からお話していただき、以下のようにまとめました。ぜひお読みください。

 

 

科学技術と社会の関わりについて

巨大技術という新しい概念
昔、技術は「椅子を作る技術」のように身近なものであり、技術者とそれを使う人の間に対話があった。しかし19~20世紀頃からいわゆる科学技術が登場し、技術の複雑化・巨大化が始まった。原発のように技術自体があまりに大きくなりすぎて、作った技術者自身も全体を見渡せなくなってしまった。原発はたくさんの技術の組み合わせであり、原子炉の専門家は原発の他の部門のことはわからない。巨大技術を社会の中に置いたときに、どのようなことが起きるのか、また一人の技術者が巨大技術とどう向き合えばよいのか、ということを考えてこなかった。本当は20世紀に考えておくべきことだったのですが、そのツケが今来ているのかもしれない。今回の原発事故でも、原発を作った20世紀の技術者は、エネルギー問題の解決を念頭に、希望を持って技術開発していた。しかし今回このような事態になってしまい、表にはあまり出てきていないが良心の呵責に苛まされている技術者はきっとたくさんいると思う。また、自分の作った技術が巨大技術の中でどのように作用するのか分からず、それが社会にどのような影響を与えるのか不安を覚える人はいるでしょう。

原子力にまつわる科学者としては、アインシュタインが挙げられます。20世紀初頭のドイツは科学技術の面で世界トップクラスだったのですが、ヒトラーが政権を握ってたくさんのひどいことをやっていた。ドイツからアメリカに亡命した科学者たちは、ヒトラーに原爆を作られては大変なことになると考えて、アメ リカでの原爆開発を主張しました。その中にアインシュタインもいました。アメリカはマンハッタン計画という原爆開発の計画を立て、多数の科学者を集めまし た。作られた原爆は日本に投下され、アインシュタインはかなり後悔した。その後アインシュタインはイギリスのラッセルという哲学者とともに「ラッセル―ア インシュタイン宣言」という平和宣言を発表しました。科学者は、自らの作り出した知識が巨大技術に応用されて社会に与える影響について責任を負わなければいけないと考えた最初の人物のひとりがアインシュタインだったのです。科学者である以前に社会に生きる一人の人間として果たさなければならない責任があ る、と。
1970年代に入って遺伝子操作ができるようになってからも科学者の社会的責任は議論されました。技術を作る人間は実際に技術を完成させる前に、その技術が社会に出たらどのようなことが起きるのかをちゃんと考えよう、という大きな流れを作り出しました。遺伝子操作で強毒性の新しい生物を作り出してしま い、社会に大きな被害を与える可能性があるからです。

 

何故科学をするのか
基礎研究をやっていたとしてももちろん兵器に転用されることもあるわけで、科学者の倫理を問うことは非常に難問なのです。極端な例を挙げれば、包丁職人は 包丁が使われた全ての殺人事件でその責任を負わなければいけないのか、ということも考えられます。科学者の倫理を考えると人間とは何か、幸福とは何か、悪とは何か、踏み込んではいけないものは何か、という大きな問いに必ず直面すると思います。
日本は戦後軍事大国にならないように、軍事技術のことを考えないで済むような仕組みの中に置かれてきました。しかし例えばアメリカの理工系大学や研究所には軍事工学や兵器学をあつかう部門が存在します。そして政府から非常に大きな資金を貰って、そこで研究を行っています。アメリカでは、科学研究費のかなりの部分が軍事研究につぎ込まれているのです。兵器産業の世界は情報がばれると兵器としての脅威が無くなってしまうので、ブラックボックスになっています。 たとえ潤沢な資金があるとしても、見つけた知見は発表することができないから、科学者にとっては精神的に苦痛だと思います。発見をしたらその成果を皆に知って欲しいからです。そこでは兵士の身を安全に保ったままいかに効率よく大量の人間を殺せるか、ということを最初から目的にして研究が行われています。 科学者の社会的責任が尖鋭的に問われるべき現場だと思います。現実に今、ロボット兵器が大きな問題になっています。そのようなことを考える研究者はどのよ うな気持ちで研究しているのか。ひとつの答えは「アメリカの国益のため」でしょうね。アメリカ国民の生命と自由と財産を外部の脅威から守るために自分は研究をしている、という考えです。しかし現実には殺人を志向した研究が行われている訳で、軍事技術の倫理をどうしたらよいのかということは考えなければいけ ません。
兵器に転用される可能性があるのなら、科学という営みをやめた方がいいのではないかと考えることもできます。しかし、難病を治すためには科学の進歩が欠かせないと考える人もいるわけで、色々な人の立場から考えることが必要だと思います。科学をする人達に「自分はなぜ科学をするのか?」ということを考えてもらいたい。科学をやるにも色々な動機があるわけで、ただ単純に自然を解明したい、新しいものを作りたい、作れるなら面白いと感じる人もいれば環境問題の 解決や人の命を救うために科学技術に携わる人もいると思います。また、研究の競争に勝ちたいというゲーム的な欲求やお金儲けのために科学をする人もいます。

 

科学者と社会の結びつき
原発事故のような問題が起きた時に政治家や市民団体、倫理学者のような科学の外にいる人から言われて科学者の社会的責任について考えるのではなく、科学者自身が自ら考えて声明を出すべきだと思います。被害を受けた人は科学者側から何らかの声を聞きたいと思うし、科学者側も外の人から一方的に叩かれると感情的な対立を起こしてしまい、有意義な議論ができません。そのためにはやはり日頃からそのような問題を考えておく必要があると思います。考えていると何か見えてくるものがあると思う。特に若い科学者の人には積極的に考えてもらいたい。技術開発の現場では競争があるために社会的責任の問題は今もあまり議論の対象になっていないと思う。また、理系大学の枠組みの中でそのようなことを議論する仕組みもまだ整っていない。そのためにも科学者集団の中で自分たちの社会的責任を考えるグループを作り、流れを作る必要があると思います。事前に自分のやりたいこと、それに関わるリスクについて市民と話し合っておいたほうが科学の研究を皆に認められながらより自由に有意義に行うことができる。対話することが責任を果たす一面を担っていると思います。もちろん対話するスキルは身につけなければいけません。
科学者も研究のための資金を国から貰っている。国はどこからお金を集めているのかというと国民です。国民の税金で研究をやっているわけだから、お金を提供してくれている人のことも考えて研究しないといけない。昔の科学研究とは少し違い、研究の自由は縮小する傾向にあるのかもしれません。もちろんブレークスルーを成し遂げるための自由は必要ですが、そのために何でもしてよいことにはならない。また、民間の団体からお金を出してもらった時にその団体の利益に反することを堂々と発表することができないという問題もありますね。
お金がある宗教団体は脳の研究に資金を提供するかもしれません。それは、脳の「宗教的な感情を司る領域」が同定されその操作方法が明らかになれば、信者を増やしていくという目的を達成できるわけです。資金提供を受ける脳科学者は、自分のやりたい脳の研究ができるのだから当然嬉しい。しかしこのような研究を進めていってほんとうに良いのか? 今まで工学は人間の外にある「モノ」しか扱ってこなかったのですが、脳や人間というものに直接関与していく時代が来ているのだと思います。人間を扱う技術だから人間に危害を与えることがあってはならないし、研究に大きな制限をかける必要が出てくるかもしれません。

 

文理融合がなぜ叫ばれるのか

知の現状
文系の学問と理系の学問は19世紀頃から大きく分かれるようになってしまいました。昔は文理融合の研究を行っていた研究者はいました。例えばパスカル、カ ント、ライプニッツとかです。彼らは自然科学や数学をやりながら神様とか人間のことを考えていた。文理が離れたその背景には研究者の数がこれまでより多くなって、作られる知の集合体が大きくなりすぎてしまい、ひとりの人間の寿命では全ての学問領域を学ぶのに時間が足りなくなってしまったことが原因です。専門分化の時代に突入していきます。理系、文系の内部でも専門が違えば何を言っているのか分からない。医学や工学の中でも分かれている。それを克服するために、20世紀から学際ということが言われてきました。

 

文理融合の第一歩
文理融合は非常に大きな問題で、私たち教員も答えを持っていません。しかし文理融合の第一歩として重要なことが二つあると思います。一つは自分の研究方法の良い面と悪い面を自覚しておくことです。自分のアプローチの仕方は他の学問分野のアプローチの仕方と比較してどう違うのか。二つ目は別の専門の人が何を 言っているのかを耳で聞いて分かるようになることと、自分の専門を専門外の人に分かるように説明できることだと思います。例えば工学の人が哲学や社会学の話を聞いてその話の要点を分かる。また自分の工学の専門分野の話を、哲学や社会学の人に分かるように説明できること。そして対話ができるようになること。それがとても大事だと思います。

 

大学とは

高校では自分の得意な、あるいは好きな知のあり方を文系と理系に分かれて探求してきました。大学では多様な知のあり方、知は恐ろしく広いものだということを、身を持って実感できるというのが大きいのではないでしょうか。それらを知ることで自分の感じ方や考え方を突き放して見ることができるようになり、自分の感じ方、考え方に対して自覚的になることができます。本当に色々な教員がいる。何故こんなことに夢中になる人がいるのだろう?と思い、全然違う意見の学生がいることにも気づく。専門学校とは違って時間的な余裕が与えられています。多様な感じ方や考え方を知りながら、自分の突き進む道を見つけていけばいいと思う。例えば歴史を学ぶと現代世界も当たり前なあり方ではないと気付きます。日本では1960年頃になって初めて赤ちゃんがあまり死ななくなりました。それまでは生まれてもすぐに死に、育っても栄養失調や病気で死んでしまう世の中だった。当時と今とではそもそも人間や命について考える基準が違うのです。歴史を学ぶことで自分の物の見方が相対化されます。

 

教養とは

教養は雑学と違います。単なる知識の集合ではない。私自身も最近ようやく教養が身についてきたと感じています。身につけるのに40年から50年かかるものだと思います。「人間や科学、文化って何なのだろう」というような大きな問いかけを持って専門外のことを学んでいれば自然に身についていくのです。例えば、「人間が何かものごとについて考えを突き詰めていくと大体こういうふうになるのだな」とか、「人間が社会を運営していくと大体この方向へ行ってしまうのだな」とか、「古代から現代に至るまで、人間はこういうことに心の慰めを感じ、喜びを感じ、救いを感じてきなのだな」というようなものですね。そういう大きな世界観や人間観に、文系や理系の知識が融合するとき、それが教養となるのです。大学は教養を身に付けるきっかけを得るには最適な場所ですが、教養を教えることはできません。「一般教養科目」という名前は間違っているのです。私たちが教えられるのはあくまで知識や考え方の筋道なのです。教養はあなた方ひとりひとりが一生かけて身につけていくものなのです。

 

インタビューを終えて(学生スタッフより)

科学技術が悪用されるかもしれないのなら、なぜ科学研究を推し進める必要があるのだろうか。そのような考えに直面してしまい、それ以上思考を進めることもできず悶々としていました。しかし科学者の倫理はすぐに答えの出るような問題ではなく一生をかけて考えていかなければいけない大きな問題なのだ、と改めて思いました。科学技術と社会の関係を論じた本は以前にも読んだことがあったのですが、その時は「なぜ研究の自由が縮小されなければいけないのだろう、やりたい研究を自由にさせてくれればいいのに。」と思っていました。ですが森岡先生の「被害を受けた人はやっぱり何らかの声を聞きたいんだよ」という言葉を聞いてはっとしました。社会には、普段は直接目に見えないし関わりもないけれど、自分たちと同じように生身の身体と心をもって生きているたくさんの人々がいる。その人たちの生活を技術の暴走によって壊してしまうようなことがあってはならないと強く思いました。科学は科学者集団の中で好き勝手に知的好奇心に駆られてやるものではなく、そのような、目に見えない人間関係のネットワーク(つまり社会というもの)の中で行われる営みであることも認識しました。税金という形で研究にお金を出してくれる人たちがいるから科学者は研究ができる。社会には色々な立場の、色々な思いを抱えた人たちがいる。相手の立場になって想像力を働かせることと、見えないものを見ようとすることの大切さを改めて感じました。

今回のお話を聞いて科学者の社会的責任について、科学者や学生自身が真剣に考えていかなければいけないと改めて思いました。また、府大で科学者の社会的責任について考える場を設けて、皆で考えることを加速させる仕組みを作っていきたいと思いました。科学技術が高度に発達した現代社会では文系の人でも技術の問題を考えるために自然科学の知識が必要だと思うし、理系の人は科学者の社会的責任を考えるためにも人文系の勉強もしっかりしていかなければいけないと思います。そのような勉強を可能にするための仕組みも考えていきたいです。

なぜ私は科学をするのか、なぜ死ななければならないのに人間は生きるのか、世界が良くなるとはどういうことなのかといった哲学的な問題も長いスパンのもとでしっかり考えていきたいです。考えている時は私自身の身に差し迫ってくる熱を帯びた重要な問題だと感じられるのですが、ふとした時に考えそのものを疑ってみると、それらの問いが霧のようにつかみどころのないものに感じられるときがあります。そもそもそのような問いは問えるものなのか、答えがないような問いではないのか。概念が明確な形を持っているわけでもありません。一体自分は何について考えているのだろう。ありもしないことを妄想しているだけではないのかと不安に駆られることもあります。しかし、立ち止まってみるとやはりそのような問いは再び私の前に立ち現われてくるのです。それらの問いを考えることは、私が生きていくうえで重要な意味を持つものと信じて、これからも一歩一歩考えを推し進めていきたいと思います。

【ご参考】
今回のインタビューで扱ったテーマを考える「科学技術社会論(STS)」という学問分野があり、いくつか入門書を挙げておきます。
『科学者が人間であること』岩波書店(岩波新書)中村桂子(2013)
『科学の現在を問う』講談社(講談社現代新書)村上陽一郎(2000)
『ポスト3.11の科学と政治』ナカニシヤ出版中村征樹(2013)
『科学者に委ねてはいけないこと―科学から「生」をとりもどす』岩波書店尾内 隆之、 調 麻佐志(2013)
『科学の社会史』岩波書店(岩波現代文庫)廣重徹(2002)